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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2018年11月11日(主日礼拝)ルカによる福音書 22章7節〜13節「備えられた子羊」 道家紀一牧師

主イエスは敬虔なユダヤ人です。したがって、ユダヤの祭り(過越祭 初穂祭収穫祭)には、慣習にしたがって、儀式を行いました。その中でも最も重要な祭りは過越祭でした。主イエスは、今、弟子たちと共に祝おうとされています。その準備にペトロとヨハネが遣わされます。「既に用意されている」その言葉を信じて準備に向かいます。すると主イエスの御言葉通りに全てが準備されていました。それが最後の晩餐となります。救い主イエスは、全てのことを準備なさって自ら犠牲の小羊(備えられた小羊)となられようとされるのです。

2018年11月04日(聖徒の日礼拝)ヘブライ人への手紙 13章7節〜16節「栄光は地上の栄華の外に」 道家紀一牧師
「町の門の外」そこは、社会の外でもありました。その昔エルサレムの町の外に住む人、外に葬られる人は、”社会の外”として故意に退けられた人々でした。ヘブライ人への手紙は語ります。「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出てそのみもとに赴こうではありませんか」と。主イエスもまた“外に”捨てられた人として生きた人です。世の誉と栄華の中を生きられたのではなく、正反対の中を生きられて、最期は人々の嘲りと嘲笑の中死んでゆかれました。そのイエスに倣って生きることが勧められます。
2018年10月28日(宗教改革記念礼拝)ルカによる福音書 22章1節〜6節「サタンが入った!」 道家紀一牧師
「サタンが入った」と.イスカリオテのユダをさしてルカ福音書は記します。聖書の中で謎の多い人物の一人です。なぜ主イエスに従いながら、12弟子の一人と数えられながら、主を裏切ることになったのか…キリスト教会2000年の歴史で何度も何度も、あるいは何人も何人もが解釈して来ました。しかし、答はそこにはありません。ルカの(聖書の御言葉=神の言葉)が答なのです。神ご自身が「サタンが入った」と言われるのです。この言葉の意味の重さを考えさせられます。神の似姿であるわたしたち誰にも起こり得ることだからです。
2018年10月21日(主日礼拝)ルカによる福音書 21章29節〜38節「終りは救いの始まり」 道家紀一牧師
「天地が滅びるときが来る。」考えにくいことですが、地上の、そして人生の終りは必ず来ます。しかし、神を信じる者にとって、その日その時は、ただ恐ろしい“最後の日”ではありません。いやむしろ、神が総決算をした上で、真の救いを実現される日です。その救いに与れるかどうかは問題ではありません。それは神の選びによる事柄だからです。わたしたちがなすべき務めは、諸々の出来事の中にあっても、「神を拝む」=礼拝をささげ続けてゆくことです。その礼拝の中に、再臨の主は降り立たれます。そこに救いは実現するのです。
2018年10月14日(神学校日礼拝)ルカによる福音書 5章1節〜11節「すべてを捨てて主に従う」 道家紀一牧師
「すべてを捨てて主に従う」すばらしいことです。ペトロもヨハネもヤコブも網を捨てて主イエスに従って行きました。今日、これを献身といいます。本日は日本基督教団が定めている「神学校日」です。主の御用のために身を献げて仕える道を選んだ人たち(献身者)をおぼえて祈りを合わせます。しかし教会にもっぱら仕える人だけが献身者ではありません。主に召しい出されて洗礼を受けた人はみな献身者です。洗礼を受けるとき捨てるのは、それまで自分を支えて来た古い我です。今度は新しくその我を拾い直して主に仕えてゆくのです。
2018年10月07日(世界聖餐日礼拝)エフェソの信徒への手紙 4章1節〜7節「一つの希望に結ばれて」 道家紀一牧師
一つになる(一致する)ということほど難しいものはありません。なぜなら、人は元々、異なって造られているからです。人は本来ばらばらなのです。人間の歴史ではしばしば一致が強調されます。それは見た目には美しく、何よりも為政者(支配者:権力者)にとって好都合なことだからです。しかしそれは、人が満足する一致であって、神がお望みな一致ではありません。一つの主(一つの洗礼)を信じる以外には異なっていてよいのです。信仰告白によって一致した後は、それぞれが自由な証し人として生きるよう進められているのです。
2018年09月30日(主日礼拝)ルカによる福音書 21章20節〜28節「解放の時は近い」 道家紀一牧師
豪雨、台風、地震…次々と起こっています。「世の末」と思えるようなことが続きます。人々は不安になります。すると多くの「偽預言者」が現れます。そして、さらに人心をかき乱してゆきます。主イエスの時代も穏やかな時代ではありませんでした。しかし主イエスは、多くの人々が「世の末」を恐れる中で、さらにそれをかきたてるかのようなことをいわれます。天地も揺すられるであろう。だが、その日「人の子」が来られて「解放を告げる」と。だから「神を仰ぎみなさい」と。終わるのは人の時代であって、神の時代が完成するのです。
2018年09月23日(主日礼拝)ルカによる福音書 21章5節〜19節「忍耐は命を勝ち取る」 道家紀一牧師
災害が続く夏でした。酷暑、台風、豪雨、地震…、次から次へと続きました。政治も経済も外交も、表向きは安定しているかのようですが、右傾化政策の継続、非正規雇用と格差の増大、隣国との平和条約締結への道程の困難…と問題が山積みです。しかし聖書の時代も、問題山積みでした。ローマに占領され、国内世情は不安定であり、宗教者も退廃し、天災も多く起こりました。世の末と思われるような中で異様な光を放っていたのは神殿でした。だが主はそれが崩れるとさえいわれます。最後の最後まで主を信じて耐え忍ぶ者が救われます。
2018年09月16日(主日礼拝)ルカによる福音書 21章1節〜4節「貧者の一灯を越える信仰」 道家紀一牧師
神に「献げる」ことは、信仰者なら“当たり前のように”考えます。しかしこの点で、わたしたちは間違います。(罪を犯します)「献げる」ことで信仰を測り、「献げられない」ことで信仰を測ります。その点を主イエスは糺されます。「どこを向いて献げているのか」と。“自分なのか”“他者なのか”すなわち、自他ともに認められるような献げ方が「献げる」ことになるのか。「違うであろう」「献げる」とは神に向かって献げることであると。そこで一人のやもめの明日をも考えない(神に委ね切った)献げ方に目を留められるのです。
2018年09月09日(主日礼拝)ルカによる福音書 20章45節〜47節「神が先に遜られる」 道家紀一牧師
信仰と生活とは同じです。生活は信仰を映し出し、信仰は生活に現れます。しかしそれは、形式的なことではありません。信仰の内容(内実)が問われることです。主イエスの時代、ファリサイ派と律法学者は、内実を問うことなく、“形”に拘りました。信仰深い祈りをとうとうとすること、いかにも信仰深い服装をすること、それが信仰深いことであると勘違いしていました。主イエスは、それを問われます。「最も愚かで体裁の悪い中に=十字架の恥辱の中に」神のみ心と栄光が輝いている、という真理を伝えるために主イエスは最期まで歩まれます。