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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2019年01月20日(主日礼拝)ルカによる福音書 22章31節〜38節「裏切りの予告の先にあること」 道家紀一牧師

人間の決心ほど怪しいものはありません。「死んでもついてゆきます」と言いながら、何人の人が裏切ったことでしょう。シモン・ペトロもその一人に数えられます。「牢屋に繋がれても、死んでも従います」と誓ったにもかかわらず、主イエスを見捨てて逃げ去ります。しかし主イエスは裏切りを予告されます。予告されるだけではなく、「立ち直ったら兄弟を励ましなさい」と言葉を続けます。たとえ裏切ったとしても、主は命を懸けて立ち直らせるという救いの言葉です。教会の関係(弟子と先生)が続いているのはここに基礎を置いているからです。

2019年01月13日(主日礼拝)ルカによる福音書 22章21節〜30節「主イエスは裏切る者をも信頼する」 道家紀一牧師

人の世に「裏切り」は付き物です。信仰においてはどうでしょう。神を裏切る、それだけはしたくないと思っています。人の世の裏切りに疲れた者が神を信頼して信仰をもつからです。しかしなお、そこにおいても起ってしまうのが人間の罪です。しかも「神を裏切る」という最悪の事態を招きます。神の裏切りは神の子の死に直結します。御子キリストは、裏切りに遭って、十字架の上で息絶えたのです。しかし主イエスなる神は、その裏切る人間を信頼され、罪の赦しの権能を授けてくださり、終わりの日、共に治める祝福を約束されます。

2019年01月06日(栄光祭:新年礼拝)エフェソの信徒への手紙 2章1節〜10節「キリストに買い戻された人生」 道家紀一牧師

わたしたちは一度きりの人生を歩みます。まっすぐに伸びた直線の上を歩んでゆくように。しかし、そのまっすぐに伸びた線上を間違うことなく歩むことが出来ているかというならば、それは甚だ疑問です。線上をはずれます。神は、創めに私たち人間を造られたとき、神が敷かれた線の上をまっすぐに歩んで行くことを期待されました。しかしその期待を裏切ったわたしたちは行き場を失う定めにあります。天と地の間にある空中と言う悪しき勢力の中に放り出されます。しかし神はそこから御子キリストによって救い出して下さいます。

2018年12月30日(年末感謝礼拝)ヨハネの黙示録 21章1節〜4節「過ぎ去った後に見える景色」 道家紀一牧師

神がお造りになられた世界と人には終わりがあります。一人ひとりの人生には終止符が打たれます。世界の歴史には終焉があります。聖書の時間は東洋的な輪廻による世界観(人生観)ではなく、一直線に進んでゆきます。その先には、永遠なる神の国が備えられています。ですから、神の創造を信じる者は、何一つ恐れることなく、まっすぐに永遠の命の門に向かって進むだけです。ヨハネは、黙示録の最後で、諸々の悪しき勢力を滅ぼされた後に、天から降りてくるエルサレムについて記します。それはわたしたちが確実に行き着く世界です。

2018年12月23日(クリスマス主日礼拝)マタイによる福音書 2章9節〜12節「救いの星を見上げて歩む」 道家紀一牧師

主イエスの誕生を知った東の国の学者は、エルサレムへやって来ます。彼らを導いたのは「星」でした。しかし、エルサレムの上で、彼らは見失います。神の救いを期待しなくなったエルサレムの人々の声にかき消されたのでしょうか。しかし、再び、星は輝き始めます。そして、学者たちをベツレヘムへと導きます。神は、すでに救いを知っている者ではなく、まだ救いを知らない未知の人々を用いて、救いの御業を起こされます。それは、密やかな形で。救いの御子、キリストは、世の喧騒とは無関係に見知らぬ人々によって見出されます。

2018年12月16日(アドヴェント:待降節Ⅲ礼拝)マタイによる福音書 2章1節〜8節「キリストが生まれる町」 道家紀一牧師

世界で最初のクリスマスは、意外な知らせとしてもたらされます。東の国からの博士たちが、神の都エルサレムを訪れます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこですか」と問いかけます。しかし、これに答えられる者は誰一人おりませんでした。自分たちに真の王が生れたというのに、エルサレムには誰一人そのことに気付く者はいませんでした。それどころか、ヘロデ王は自分の地位を脅かす危険な存在として殺そうとさえ企みます。そんなこととは知らずに博士らは、星に導かれ救い主キリストに会いにベツレヘムへ行くのでした。

2018年12月09日(アドヴェント:待降節Ⅱ礼拝)マタイによる福音書 1章18節〜25節「ヨセフの決断」 道家紀一牧師

イエス・キリストの誕生には数々のドラマ(場面)があります。天使の歌声、羊飼いの調べ…。しかしその中でも、静かに書かれたドラマがあります。父となるヨセフの祈りです。彼は、母マリアの夫として、神に対して誠実に事柄を受け入れ、キリストの父となります。ですが、そこに至るまでは、隠された激しい祈りの闘いがありました。“聖霊によってみごもった”にわかには信じられない事柄、それゆえに神を信頼して祈る他ない事実に、ヨセフは向き合い続けました。その結果が、マリアをそのまま受け入れるという聖なる決断でした。

2018年12月02日(アドヴェント:待降節Ⅰ礼拝)マタイによる福音書 1章1節〜17節「イエス・キリストの系図」 道家紀一牧師

新約聖書の始まりは「イエス・キリストの系図」です。「アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへの移住まで14代、バビロンへ移住されてからキリストまで14代」少なく見積もっても1000年以上の年月を経ています。神が、アブラハムとその家族、さらにはイスラエルを通して、全ての人間を救おうとなさってから1000年以上も経て、ようやく救い主キリストがお生まれになられたのです。この長さは、神の怠慢ではありません。神のわたしたち人間に対する忍耐の長さです。

2018年11月25日(収穫感謝日・謝恩日礼拝)詩編 1章1節〜6節「幸いな道を歩む人生」 道家紀一牧師

人は生まれたからには“幸いな人生”を歩みたいと願います。しかしその歩みを確実にするものは何でしょう?お金ですか?地位ですか?地上のこれらのしるしは何一つ“幸いな人生”を歩むことを保証するものではありません。どんなに幸せだと感じていても、明日は分かりません。死が訪れるかもしれません。思いもよらない災いが降りかかるかもしれません。神を信じていても信じていなくても苦難(幸いを阻害するもの)は来ます。詩人は詠います。「御言葉に聞く者は幸いである」と。神の言葉が人生の苦難と災いからあなたを守ります。

2018年11月18日(主日礼拝)ルカによる福音書 22章14節〜20節「教会に流れている血」 道家紀一牧師

主イエスと弟子たちの最後の晩餐は、イスラエルの伝統的な行事「過越祭」の中で行われました。それはエルサレムの町の中の一軒家の二階の部屋でした。主は伝統的な過越祭に則りながら、新しい意味を付け加えました。それは犠牲の小羊は神の小羊にとって代わるということでした。すなわち、十字架の主の犠牲による「罪の赦し」=罪からの解放です。わたしたち人間は神以外の諸々の悪しき事柄=罪の事情に縛られています。それがわたしたちの不自由(罪の奴隷状態)にします。主イエスの犠牲は、それからの解放の出来事です。