聖書には突如登場する人物がいます。神の救いの歴史の中に忽然と現れます。アリマタヤのヨセフです。彼は、神が備えられた人物です。彼は本当の意味で正しく生きる人でした。神からいただいた良心に従って、生きることを心掛けていました。しかし、弱さも抱えていました。正しいと信じることを貫けない弱さです。罪と呼ぶには余りにも厳しい人間の側面です。しかし彼は悔い改めることを忘れない人でした。主イエスの十字架の間違いに気づいていた彼は、祈ります。その結果遺体を引き取ります。この行動が救いの業につながります。
「本当に、この人は正しかった」異邦人の兵士である百人隊長は叫びました。彼は、本当の神も、聖書の真理も知りません。しかし、目の前で起こった事実に引き込まれて、思わず叫んだのです。それは荒削りの信仰告白です。信仰は整っていなくともよいのです。目の前に起こった奇跡、聖なる事実に対して、「本当だったんだ」と告白できるかどうかです。日頃どんなに賢く神を信じていると語っていても、十字架の出来事を前に逃げ出せば、本物の信仰とはなりません。遠く離れて立つ者ではなく、「本当だったんだ」と叫ぶものになりましょう。
ゴルゴダ(されこうべ)の丘に3本の十字架が立てられました。その真ん中の十字架には主イエスが架けられました。犯罪人の中の犯罪人として主イエスはかかげられたのです。罪のまったくないお方が、罪人の中の罪人として地上の権力によって裁かれます。神の子イエスは、人間の罪の下に屈服させられます。恥辱と汚辱にまみれた中で、救い主イエスはその命=神の命を注ぎ出されて朽ち果てられてゆくのです。この主の姿を見て、ひとりは罵りの言葉を吐き、もう一人は悔い改めて救われます。十字架の凄まじさの中に何を見るかです。
自分では、なぜか分からないのに、巻き込まれてゆく時があります。あるいは、知らないうちに関わされてしまう時があります。本意ではない。しかしという状況です。そのとき、神を信じる者はどう捉えるかが問われます。無責任になるか、それを拒むか…。主イエスの十字架の道のりで、思い掛けず十字架の一端を担うことになった人物がいます。キレネ人シモンです。ただ見物していただけなのなに、十字架の一端を担ぐことになりました。しかしそれが、彼と彼の家族の救いの始まりでした。神は思い掛けない仕方で招かれています。
盾と矛、どちらも一番と主張する矛盾の語源です。人間のこころは矛盾を抱えるとき激しく葛藤します。そこを乗り越えられない苦しみに立たされます。今正しい人主イエスを前に深い迷いに立たされている人物がいます。ポンテオ・ピラトです。主イエスのどこにも犯罪を見出せないのに、ユダヤの人々の声に負けて「犯罪人」として渡します。彼はこの判決には関わりたくない思いに満ち満ちています。しかし、総督である限り、その役目を果たさねばなりません。矛盾を抱え込み無責任になる罪人のためにも、主イエスは死なれたのです。
祭司長らは、ついに主イエスをローマ総督のピラトに訴え出ます。司法権(警察権)のなかった彼らは、ピラトに訴えることによって公に主イエスを葬り去ることが出来たからです。罪状は反逆罪です。罪の全くない者を宗教上においても世俗においても「罪人」とする。恐ろしい人間の罪です。人を陥れるとはこういうことを言うのでしょう。しかしピラトも領主ヘロデも主イエスに罪を見出だせないまま放り出します。二人のとった態度は無責任でした。そして祭司長らは自己満足(自己実現)へ向かいます。ここに深い人間の罪があります。
「おまえは神の子なのか」主イエスを取り囲む人々は問い続けます。しかし主イエスは答えられます。「わたしが答えても決して信じないであろう」と。主は知っておられるのです。人々が本心から「わたしは誰であるか」と尋ねて来ていないことを。そして主は答えられます。「わたしが神の子だとはあなたがたが言っているのだ」と。これを聞いた人々はとうとう決めつけます。「これ以上の証言が必要だろうか」と。この取り違えこそが人間の罪です。愚かな質問を繰り返した後に、勝手に主を亡き者にする。わたしたちも同じ罪を犯しています。
ペトロは泣きました。「鶏が鳴く前に三度わたしを知らないというであろう」という主イエスの言葉を思い出して…人間の罪の極みの姿です。「はい、主よ、従います」という決意も潔さも、保身のためには脆くも崩れ去りました。神よりも、真理よりも大切なものがあるのです。それは自分です。最も愛しているのは自分です。それを捨ててまで(命を投げ捨ててまで)神も他者も愛することはできないのです。しかし主イエスは、「分かっているよ」とペトロをみつめて送り出します。この主のまなざしにわたしたちは生かされるのです。
裏切の合図は“接吻”でした。イスカリオテのユダは、主イエスに近づき接吻しました。それを合図に、捕える者たちが押し寄せます。そのとき、気が動転した弟子の一人が“剣を振り回します”。主を信じ従おうとする者の勇敢さからではなく、主を見失う(主が奪われる)ことへの恐れから出た行為です。罪の諸々の勢力が押し寄せて来るとき、わたしたちは人間業で愚かな剣を振り回してはなりません。救い主キリストの言葉(御言葉)に聞く他ないのです。主は言われます。「もうよい剣を納めなさい」と。それが主の命令の言葉です。
キリスト教信仰の祈りはただの気休めでも納得でもありません。自分の(人の)思いと神の思い(御心)とが切り結ぶ接点です。天にまなざしを向けて祈る時、そこに神の“まなざし”が注がれます。しかしわたしたちは、そこで抗います。なぜなら、自分の思いと神の思いとの違いに気づかされるからです。しばしば神のお考えはわたしたちのそれとは違います。主イエスも血の汗が滴り落ちるほど祈られました。神の御心は十字架だったからです。「主よわたしの思いではなく御心のままに」そこまで祈り切った後は、晴れ渡った道が啓き示されます。