赦しの恵みがあることを否定する者=赦しを認めようとしない者は、永遠に赦されず、罪の責めを負い続けることになると主は語られます。聖霊とは、今も働く、赦しの神=イエス・キリストの圧倒的な恵みそのものです。このことを信じない者は、永遠の刑罰=神から見放されて、罪と弱さをおぼえ続ける生涯を、また死んだ後も、送ることになるのです。ときに神を信じられなくなってもよい、キリストがわからなくなってもよい、しかしただひたすらに、「赦しの恵みがあることだけは信じなさい」と、主イエスは語られるのです。
神は語られます。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と。この御声にわたしたちは聞くべきです。あなたとは、イエス・キリストのことです。主イエス・キリストは、第一には、天の父なる神の愛する御子であると語られます。その愛する御子=神が大切にしても仕切れない御子は、また、わたしの心=善をなそうとしてかえって悪をなすような“どうしようもない罪”の問題を解決するという志をもっともよく理解し受け入れてくださる者であると。この御子キリストを信じ、これに聞き、これに従えと神は語ります。
世の中の悲惨な現実は、神の裁きそのものではもちろんありません。そんなことをいうことは被災された方々に対する“驕り”であり、赦されることではありません。ただ、わたしたちは、この悲惨さの中に、一人ひとりが神の裁きを見る“契機”としなければと思っています。この悲惨な現実の中に、あの十字架のキリストが横たわっておられる。しかし、そのキリストはまた“復活の主”である、ということを信じたいと願います。「主は裁き、主は救われる」という真理を、みさせていただきたいと祈りましょう。
神を信じる=キリストを信じるとは、ときに世と人々との間に“軋轢”と“衝突”を生むことがあり得ましょう。しかしそれは、神の救いの恵みが、(さらにいうならば)神の真理が“貫かれる瞬間(とき)”なのではないでしょうか。そのために、御子キリストは十字架に架かって死なれました。そして復活されました。この恵みの出来事をひたすらに信じ、神の栄光に(誉れに)与る道を求めることが大切です。主イエスを信じたいと思った多くのユダヤ人は人目をおそれて主イエスを「救い主(キリスト)」と認めることは出来ませんでした。
主イエスは言われます。「光を信じて、光のあるうちに歩きなさい」と。わたしたちを取り巻く世は、神から御覧になれば暗闇の部分を多く抱えています。わたしたちの生活と人生は、その暗闇に追い回されているかのように過ぎ去ります。そして、多くの人が虚しい死を迎えます。しかしそうであるからこそ、主イエスはいわれます。「光のあるうちに、光を信じなさい」と。キリストが示される“そのとき”に、信じて、委ねる決心をすることです。“そのときでない”といっている内に、キリストは十字架に上げられていなくなってしまわれます。
「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」余りにも有名な聖句(主イエスの御言葉)です。しかしその本当に意味するところが理解されていません。主イエスは何を言われたのでしょうか。ご自分の十字架の死について、その意義を語られたと思うのですが、それだけにとどまらず、主イエスを信じるわたしたちの生き方(信仰者の生活)について示唆を与えられたと思います。何の為に命を保って生きようとするのか。いつかは尽きる命の使い方について深いメッセージが込められています。
キリスト教は救いの宗教です。しかしそれは、単なる“お助け”とは違います。キリストが語り示される救いとわたしたちが思い描く救いとはしばしば異なっています。主イエスは、救い主としてエルサレムへ入城されました。そのとき勇ましい軍馬のいななきと共にではなく、ろばの子にまたがって入城なさいました。しかしその滑稽さに気づく者は一人もいませんでした。人々は熱狂的に主イエスを迎えます。世の権力や都合によって救いが実現するのではなく神のなさりよう(十字架と復活という愛の業)によってのみ救いは実現するのです。
わたしたちは“無駄”を好みません。合理的で計算し尽くされた人生や世界を望んで来ました。しかしながら、ここ最近の状況の中で、それは果たして正解なのだろうかと疑問が生じています。懸命に計算し尽くして築き上げたものが一瞬のうちに崩れ去る経験をさせられています。格別、コロナ感染症は人間の力のなさを如実に表しています。ここに登場する女性は一瞬のうちに1年分の賃金にあたる純粋で高価な香油を主のために使ってしまいました。それは世の何ものにも代えられない主への愛のゆえです。主はその信仰を顧みられます。
最初のクリスマスに、東方の博士(占星術の学者)らが星に導かれてエルサレムへ着きました。東方の生活が嫌になったからではありません。救いの星を見てしまったからです。神の救いは知っているだけでは見出せません。“救いのしるし”に気づくことです。「そのときだ」と信じて行動を起こすことです。博士らは、御子の誕生に出会って救いを得ました。そのとき、黄金、乳香、没薬をささげます。キリストに出会った者はこれまで支えて来たものを一度捨てて、再び、キリストの名によって一つひとつ拾い直す、新しい人生を歩み始めます。
ヘブライ人への手紙は、聖書が語る罪と言う障害物を取り除くためのユダヤ教の犠牲に属する全てのものは「絡み付く罪」にもかかわらず、神への接近を永遠のものにするような方法で“主イエスが成し遂げたこと”を論じています。ハイデルベルグ信仰問答21の答えの中に「大祭司」という言葉がありますが、真の大祭司はイエス・キリストです。この方の性格は、罪のある人間の生活を思いやるところにあり、それは、十字架の苦しみを経て復活された救い主であるキリストの姿そのものです。このことを信じることが堅固な信仰となります。