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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2020年12月20日(降誕祭:クリスマス礼拝)ルカによる福音書 2章1節〜20節「暗闇を突き抜ける光の子の誕生」 道家紀一牧師

今年ほど、クリスマスを待ったことはありませんでした。春先に始まった新型コロナウイルスの感染症によって、わたしたちの世界は突然の闇に覆われてしまいました。9ヶ月経た今も状況は変わりません。希望の見えない日が続いています。しかし、「今日救い主がお生まれになりました」希望の主であるキリストが今年もわたしたちのもとへ来てくださいました。光が灯されたのです。希望のこの光を見出す方法はただ一つです。天を見上げることです。たとえ、周りを囲まれても、天は開けています。そこから希望の光は差し込まれます。

2020年12月13日(待降節Ⅲ 日本伝道の推進を祈る日礼拝)ルカによる福音書 1章57節〜80節「シャローム(主の平和)の到来」 道家紀一牧師

クリスマスの物語は驚きの連続です。決定的に神が主導者であられるからです。年老いて子どものいない夫妻に子が与えられる。婚約中の若い乙女に子が宿る。わたしたちの日常の風景で、多くの一般常識の中では起こらないような出来事が次々と起こることから次第に始まります。「そんなことが起こり得ようか」それがクリスマスの始まりに告げられるメッセージです。それは一つの“衝撃”となって、わたしたちに臨みます。“受けとめられない恵み”それが、クリスマスの内実です。それを受けとめることから、クリスマスの恵みは授けられます。

2020年12月06日(待降節Ⅱ礼拝)ルカによる福音書 1章39節〜56節「マリアの賛歌」 道家紀一牧師

神は不思議なことを起こされます。いえ、訳の分からない事柄を起こされます。それも突然にです。天からの命令として響き渡ります。そのとき、わたしたちは圧倒されます。しかし神は、一方的なメッセージだけではなく、この世において「そうなんだ!」と分かる“てがかり”を示してくださいます。今マリアが向かっている先にそれはあります。年老いたエリサべトに子が宿ったという事実を見て、確かめるために。そうして神の御業を確信したマリアが歌ったのが“マグニフィカート”(マリアの賛歌)です。圧倒的な神の恩寵を歌い上げます。

2020年11月29日(待降節Ⅰ礼拝)ルカによる福音書 1章26節〜38節「受胎告知」 道家紀一牧師

処女(おとめ)マリアは、一人のか弱い信仰者です。世の人々が崇めまつって来たような処女(おとめ)ではありません。天からの突然のお告げに戸惑いを隠せないで怖じ惑う女性です。「どうしてそんなことが有り得ましょうか」と。しかし彼女は“祈る女性”でした。人生には分からないこと、不思議なこと、そして、不条理なこと…たくさんあります。そのとき信仰者はどうすればよいのか。マリアは教えてくれます。「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と。その先に思いもかけない主の祝福が待っています。

2020年11月22日(収穫感謝礼拝)詩編 37章1節〜11節「人生で目指すこと」 道家紀一牧師

人生とその周りの世界は謎と不条理に包まれています。その中で、わたしたちは喜ぶこともあれば、怒りに満ちることもあります。詩編37編の詩人はわたしたちの姿と重ね合わせられます。あらゆる事柄に、格別不正と悪に耐えられず如何ともし難い思いにかられます。しかしこの詩人はうたい綴ります。「沈黙して主に向かい、主を待ち焦がれよ。繁栄の道を行く者や悪だくみをする者のことでいら立つな」と。怒ったり、いら立ったりしないで、主なる神に任せよと。アドベントに入ります。救い主から来る希望のときを、待ち望みましょう。

2020年11月15日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 11章45節〜57節「一人のお方の死によって」 道家紀一牧師

兄弟ラザロを死からよみがえらせた主イエスの名声は今や鰻のぼりでした。しかしそれによって、ユダヤの宗教指導者層は一つとなって主イエスに対します。 その中心に大祭司カイアファがいました。彼は事もあろうにいいます。「一人の 人が死ぬことによって全ての国民が救われる」と。カイアファがキリスト教で 言う「贖罪論」を語ったとは思えません。その証拠にその後「キリストの殺害」 を企てて行きます。神はカイアファを用いて、救いの計画を進めて行かれます。 それは理解できないことですが、世の不条理を解くカギがそこにあります。

2020年11月08日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 11章38節〜44節「彼方から来る希望」 道家紀一牧師

ラザロの死からのよみがえりは、まったくもって希望が消え失せてしまったような現実のただなかで、わたしたちの主イエスが違いなく立っておられることのしるしです。人間の悲惨さの中に、悲しみの中に、そして、人間の罪の現実の中に、十字架の主は、わたしたちと共に涙しながら立ち続けておられます。 そこから主は、わたしたちを立ち上がらせてくださいます。「信じなさい。神の栄光はここにある」といわれて。主イエスのこの姿を信じる者は、死という人間の弱さと罪の限界を越えた彼方から来る希望に生きられるようになります。

2020年11月01日(聖徒の日礼拝)詩編 90章1節〜17節「神の怒りに消え去る者の救い」 道家紀一牧師

詩編90 編はダビデの作といわれています。この詩人は、人の死について明確な 答えを持っています。「人の罪に神が怒られて裁かれる」からだと。神の似姿として創造されたにもかかわらず、人は罪を犯し、永遠の命を失いました。それが死だと語ります。しかし詩人は、そこで終わることはありません。神に願います。「己が人生を数えさせてください」と。しかしこれもかないません。最後に詩人は、希望をうたいます。「その日、神が顧みてくださるように」と。信じて委ねて命を全うしてゆきます。キリストはこの信仰を保証してくださいます。

2020年10月25日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 11章28節〜37節「キリストの涙の意味」 道家紀一牧師

ラザロの死を悲しむマルタとマリア、そして、彼女らを取り巻く人々を前にして、キリストは涙されますが、その前に、例えようもない怒りを発せられます。この怒りの意味は、言語的にも解釈できないような表現です。単なる怒りでもありません。憤懣やるかたないという意味でもありません。主は心の底から言いようのない怒りにとらわれて、激しく憤られたのです。その怒りは涙になります。死をもって何もかも終わるしかない人間の“限界”に涙されたのです。この涙は十字架の涙に繋がります。復活は涙から喜びへの転換です。

2020年10月18日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヨハネによる福音書 11章17節〜27節「死んでも生きる」 道家紀一牧師

「死をもって何もかもが終わる」それが、わたしたちの常識です。しかし主なる神キリストは、その常識を破る言葉を語られます。「死んでも生きる」と。死という誰一人乗り越えられない壁を打ち破る言葉です。ラザロの死は、人間が乗り越えられない壁を表しています。主なる神キリストは、その限界を超えて行かれます。死をもってすべてが終わることはない。否、死んでからが真の人生だと言わんばかりです。わたしたちは「終末的に生きます」それは希望のない人生ではなく、神と共に生きる希望にあふれた人生を歩むことです。