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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2018年02月04日(主日礼拝)ルカによる福音書 15章11節〜32節「神の深い愛に触れて帰る」 道家紀一牧師

聖書の中でとても有名な話です。「放蕩息子」の話です。絵画や小説など芸術の世界でもたくさん描かれています。往々にして、話の焦点は「放蕩した息子」に当てられますが、本当の主題は「父なる神の愛」です。どんなに愚かで失敗の連続をしている者も、神は本気で赦し、受け入れてくださる。神の測り知れない深い愛が、この話の父です。この父にはもう一人息子がいました。堅実な兄です。彼は赦された弟を受け入れません。そして父の愛も理解できません。しかし父は、この兄も変わらない息子として愛しているのです。

2018年01月28日(主日礼拝)使徒言行録 27章39節〜44節「錨を切り離して進む」 平澤基幸牧師
使徒パウロは、ローマで弁明するために、囚人たちといっしょに舟に乗せられました。ところが、暴風雨に遭い(こういうことはしばしばありました)、舟が難破してしまいます。囚人を管理していた兵士は、逃亡をおそれて、囚人を殺すと計ります。ところが、全員を率いていた百人隊長は、それを思い留まらせて、全員を助けます。ここにパウロの言葉はありません。しかしパウロは、「主イエスの言葉」に留まり続けていたと思います。「わたしは必ずローマに行かねばならない」との信念を、神はあらゆる形で支えられるのです。
2018年01月21日(交換講壇礼拝)マルコによる福音書 1章14節〜20節「神の国、近づけり」 長谷川洋介牧師
主イエスは、洗礼者ヨハネが捕えられたと聞いて、ガリラヤへ向かわれ、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と神の福音の宣言をされました。福音は、「神の国が近づいた」ということです。神の国は神の支配です。神の国が来た以上、その事実を知った者は、“悔い改めて”つまり、神の方に向き直って、神の国到来を受け入れる=信じることへ向かわねばなりません。主イエスのこの呼びかけに応えた者=神の方へ向き直った者が、最初の弟子たちです。彼らは皆、神の国到来の福音を信じた人たちです。
2018年01月14日(主日礼拝)ルカによる福音書 15章1節〜10節「なくなったままで良いのか」 道家紀一牧師
ルカにはルカによる福音書特有の「たとえ話」が幾つかあります。ここでの話「99匹と迷い出た1匹のこひつじ」もその一つです。99:1という構造は、わたしたちの世の中にはしばしば生じることです。教会にも(教会にこそ!?)起こり得ることです。「勝手に迷い出て行った“たった1匹”のために」なぜそこまで面倒を見る必要があるのか?という声です。それよりも残っている正しい99匹こそ大事にするべきではないのかと。それは社会の常識です。人間の正しい判断です。しかし神のまなざしは、迷い出た1匹に注がれるのです。
2018年01月07日(新年・栄光祭礼拝)エフェソの信徒への手紙 3章14節〜21節「広く、長く、高く、深い愛」 道家紀一牧師

新年最初の礼拝を「栄光祭礼拝」といいます。礼拝は神の栄光をほめたたえることが大切です。礼拝の最後で「頌栄」を歌いますが、それはただ礼拝に出席出来て“よかったよかった”と神をほめたたえるためではありません。もっと大きなレベルで神の御名をほめたたえるのです。礼拝には、一週間の生活の中での様々な思い、人生の節目における苦悩や喜びなど、いろいろなものを抱えて出席します。しかし礼拝が終わったときには、すべて神からのものと受け止めて“アーメン”とうなづき再び世に出かけるのです。それが頌栄です。

2017年12月31日(年末感謝・歳晩礼拝)ヨハネによる福音書 1章1節〜4節「ここに命がある!」 道家紀一牧師

わたしたちは肉のイエスに会っていません。会っていないのに信仰(主イエスを信じる思い)が湧き上がります。あたかも歴史のイエスに(本物のイエスに)会ったかのようにして。なぜでしょう。ヨハネの手紙の著者は語ります。「目で見たもの、よく見て、手で触れたもの」を伝えますと。そしてこの方は、「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの」である「命の言葉」なる方、主イエス・キリストであると。命の言葉、それが代々の教会に伝えられて来た方です。聖書(御言葉)と聖餐(パンと杯)という形で聞き続けている方です。

2017年12月24日(降誕祭・クリスマス礼拝)マタイによる福音書 2章1節〜12節「希望の☆はあなたの上に」 道家紀一牧師

救いの星はいつもわたしたちの上に輝いています。それを見出せないのは、わたしたちが、諦めているからです。希望がないところに生きているからです。希望があるのに、希望がないかのように生きている。それがわたしたちです。なぜ、希望がなくなるのか。本物の救いに触れていないからです。東の国の学者たちは、行動を起こしました。救いの星が見えると同時に全てを投げ打って。希望がないとつぶやく人に限って行動を起こそうとしないものです。起こしているも知れません。しかし神を本気で信じて行動する中心点がないのです。

2017年12月17日(待降節第三礼拝)マタイによる福音書 1章18節〜25節「恐れずに受け入れる」 道家紀一牧師

イエス・キリストの誕生にはある人の激しい葛藤がありました。神との格闘です。祈りの激しさとでもいいましょうか…父ヨセフです。彼はいいなずけの妻マリアの妊娠を知ります。彼は神の正しさに生きる人でした。神の正しさとは裁きで終わらない赦しの真理のことです。はじめ彼はマリアと離縁することによって真理を貫こうとしました。しかしそれは神の計画とは違っていました。神は恐れずマリアを受け入れることを命じます。この出来事の正しさの主は私にあると言って…人が主語である間には分からない神の恵みです。

2017年12月10日(待降節第二礼拝)マタイによる福音書 1章1節〜17節「待って待って待ち続ける神」 道家紀一牧師

新約聖書の始まりマタイによる福音書は「アブラハムの子イエス・キリストの系図」から始まります。なぜこのような系図から始めたのでしょうか。もっと読みやすい始まりの方がよいに決まっています。しかし、この系図には意味があります。神の長きに亘る「忍耐とご計画」が込められています。アブラハム、ダビデ、ソロモンと続く神が選ばれた人々、そして、その最後はヨセフ。このヨセフからイエス・キリストは生まれました。単純に計算しても2000年以上のときが流れています。神は人間の救いのためには待ち続ける神なのです。

2017年12月03日(待降節第一礼拝)テサロニケの信徒への手紙 一 5章1節〜11節「今年も救い主が来られます」 道家紀一牧師

一年の終りは、新しい一年の始まりでありつつ、確実に終りに近づいています。聖書で終りを意味する言葉は「主の日」です。テサロニケの人々は「主の日」を真剣に受け止めました。ところがその結果、「明日は主の日」「明後日は主の日」と勝手に決めてしまい、やがて「どうせ明日(明後日)来るならば」と、ある人は諦めはじめ、ある人は自暴自棄になりました。パウロはそれを戒めて、「キリストを信じるならば終りの日が恐ろしい裁きの日ではなく、救いの日となる」ことを説きます。十字架の主は裁き主であり救い主でもあるのだと。