• 042-512-8308
  • info@karashidane.tokyo
立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2021年12月05日(待降節第二礼拝)マタイによる福音書 1章18節〜25節「救いに必要不可欠なこと」 道家紀一牧師

インマヌエルの神を信じるとは、わたしたちのことを、どこまでも追いかけて来てくださる方がいることを確信することです。これほどの恵はありません。眠りから覚めたヨセフは、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎え入れます。そして、神の命じるままに、自分の子として受け入れ、名をイエスと名付けたのでした。神の救いとは、思いのままにならない目の前の事柄を受け入れ、健やかに一人立ち、潔く生きてゆくことです。その救いが生まれるまで、神が主語となる祈りを、わたしたちはやめてはなりません。

2021年11月28日(待降節第一礼拝)マタイによる福音書 1章1節〜17節「救い主に至る系図」 道家紀一牧師

アブラハムからダビデまでが十四代、ダビデからバビロンへの移住までが十四代、バビロンへ移されてからキリストまでが十四代、合わせて四十代となります。1000年以上の時を経て、神はキリストを遣わすご決断に至っておられるのです。神はわたしたち人間が、神の許へ帰って来ることを待って待って、なお待ち続けて、それでも裏切られ、最後には御子キリストを遣わされたのです。わたしたちの救いには、これほどに長い神の忍耐があるのです。アドヴェント(待降節)の意味を、今一度深く思いつつ過ごしましょう。

2021年11月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ヘブライ人への手紙 2章5節〜10節「人間救済の創始者」 平澤基幸牧師

ヘブライ人への手紙は、各地へ散らされたユダヤ人が改宗してキリスト者になった人々に向けて語った手紙といわれます。しかし、ときは未だキリスト教の迫害の時代でした。手紙の著者は、人々に向かって語ります。「というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標である方に、ふさわしいことであったからです」と。一人でも多くの人を救いに至らせるため神は御子キリストをおくられたのです。

2021年11月14日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 15章18節〜21節「決して滅びない」 道家紀一牧師

キリストを信じることは、世と向きあうことになります。また、それだけでなく、世と戦い抜くことができず、かえって世に巻き取られてゆく自らの罪とも向きあうことになります。“キリストの名ゆえに”受ける迫害です。しかし、キリストにある教会は、休むことなく礼拝をささげ続けることによって、迫害と戦い続け勝利して来ました。教会がなくならない、いやそれどころか今も世界中に教会は増え続けているという歴史の事実が、その勝利を証明しています。

2021年11月07日(聖徒の日礼拝)ヨハネの黙示録 20章11節〜15節「命の書に名が記されている」 道家紀一牧師

教会の長い歴史において、先に死なれ、今は深い眠りに就いておられる方々は、みな最後の裁きのときキリストの弁護を受ける権利を得ている方々=聖徒と呼ばれる方々です。今ここに生きるわたしたちもまた、キリストの救いの御恵を信じて、その弁護を受けられることを確信し、与えられた生涯を精一杯生きて行きたいと願います。

2021年10月31日(宗教改革記念日礼拝)ヤコブの手紙 1章5節〜8節「信仰と知恵」 永瀬よしこ牧師

「信仰と知恵」について神は、信じて祈る信徒に、その時に応じて、神の知恵を授けてくださいます。そしてその知恵を祈り求めることです。ですから、全てを可能とされる神なる主イエスにたより、良き知恵を与えて下さるよう祈り求めることこそ、信徒の正しい信仰生活の姿なのです。また、ヤコブは、この書簡を書くにあたり、教会全体に向けて書いています。互いに主を救い主として告白する私たちは、互いのために執りなしの祈りをし、集い礼拝を捧げるのです。

2021年10月24日(主日礼拝)ヨハネによる福音書 15章11節〜17節「キリストの友として選ばれる」 道家紀一牧師

主イエスが、なにゆえに、わたしたちを選び続けてくださっているのか、それは、わたしたちの信仰の実現のためだけではありません。一人ひとりの信仰が実現されるということのその先には、互いが互いに愛し合うという、神が創造のときから願われ続けておられる、神の国の実現があります。そのために、わたしたちは選ばれているのです。

2021年10月17日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)ルカによる福音書 15章7節〜10節「教えと愛は表裏一体」 道家紀一牧師

掟(教え)と愛は表裏一体です。矛盾しません。愛する者は、愛する対象の教えに喜んで従おうとするからです。それがもっとも幸いな人生を歩むことを知っているからです。命を注ぎだし、わたしたちを愛してくださったキリストの愛と教えの中に留まり続けることを可能とするのは、神とキリストへの真摯な祈りです。多忙な日々の中においてこそ、祈りの時間を、ほんの数分でも“割く”(分け隔てる)こと、そこからすべては変わります。

2021年10月10日(神学校日礼拝)ルカによる福音書 5章1節〜11節「人間を漁る働きに召される」 道家紀一牧師

「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」伝道者の誕生、主の証し人の誕生です。彼らは舟を陸に引き上げすべてを捨ててイエスに従います。ここにあるのは、主に招かれた3人です。彼らは、「捨てて、拾う人生に変えられた3人です」。キリストに出会うとは、そこから、キリスト告白に導かれ、自分の人生を脇へ置く(捨てる)のです。そして、新しく、神に仕える、神に随う人生に必要なものを、改めて、一つひとつ拾ってゆくのです。その一人ひとりの証しのある生き方が、伝道となり、教会を造って行きます。

2021年10月03日(世界聖餐日礼拝)コリントの信徒への手紙 一 11章23節〜26節「神が定められたその日まで」 道家紀一牧師

聖餐式で、わたしたちは、罪赦された者として、生きる希望を確信します。“自信”と“確信”は違います。信仰は自分が信じるという“自信”に基づくものではないからです。主が、その命をかけて信じさせてくださるという“確信”(=信仰のたしかさ)に基づくものだからです。人生にとって必要なものは沢山あります。しかし、同時に必要なものは、“赦しのたしかさ”です。「赦せない罪と過ち」「赦されない罪と過ち」に嘆き続けている人は多いのです。それをどのように扱えばよいのか。その術は聖餐式にあります。