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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2025年10月05日(世界聖餐日礼拝)エフェソの信徒への手紙 2章11節〜22節「一つの聖なる民」 道家紀一牧師

教会は神との間に平和を得ている一人ひとりが集っている聖なる交わりにある群れです。したがって、教会に集う一人ひとりに違いがあっても関係のないことになるのです。外国人も寄留者も分け隔てなく交わる場所それが教会でなくてはなりません。なぜなら、この世の国籍は関係なくなるからです。「わたしたちの国籍は天にある」という関係に生きるからです。それこそが「聖なる民に属する者、神の家族」という交わりに入るということです。使徒信条がうたっている「聖なる交わり」のことです。

2025年09月28日(主日礼拝)マタイによる福音書 17章22節〜27節「主イエスの自由に生きる教会」 道家紀一牧師

わたしたちも神の子キリストに結ばれていることにおいて神の子たちです。したがって、世の取り決めた制度や規則に縛られることはないといえます。しかしその上で、主イエスが語られたもう一つの大切な御言葉「しかし、彼らをつまずかせないようにしよう」という愛の配慮に生きることが求められます。地上に生きている限り、様々な取り決めや制約があります。人間関係においても、ややこしいものがあります。本来、神の子であるわたしたちは、それからは解き放たれた”自由”を手に入れています。しかし、その自由を、何のために用いるのか。自分たちの思いや我が儘な欲望を通すために用いるではなく、主イエスのように、愛の配慮を実現するために、用いてゆきたいと願います。

2025年09月21日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 17章14節〜20節「できないことはない」 道家紀一牧師

「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」と。これは、小さな信仰を言っているのではありません。たとえ、からし種のような小さな一粒であったとしても、それが神へのまったき信頼に基づいた”本物の信仰”であるならば、山に向かって「動け」といえば、山をも動かせるはずであると。そういう意味で、あなたがたが本物の信仰をもてば、悪しき霊を追い払い、神への全き支配の下に取り戻されて、できないことは何ひとつなくなる、すなわち、あなたがたが想像する以上の奇跡が起こるのだと。

2025年09月14日(主日礼拝)マタイによる福音書 17章1節〜13節「山上の変貌」 道家紀一牧師

わたしたちも、毎主日、主イエスと共に、礼拝という高い山に上っています。そして、そこで、神の救いの計画の全貌を啓示されます。復活の主の栄光を見るのです。そして、山を下って帰ります。そのとき、主はいわれます。今見たこと(幻)は何であったのか、きちんと受け止められないうちは、誰にも語ってはならないと。すなわち、日常生活の中で、人生の中で、あなたは本当に「十字架と復活の主イエスは救いである」と告白してゆくことが出来てゆけるのか?そのことが毎主日、主イエスから問いかけられています。

2025年09月07日(振起日礼拝)マタイによる福音書 16章21節〜28節「神の前に出てはならない」 道家紀一牧師

このときにはまだ、弟子たちも初期の教会の人たちも、地上で立ち会えると思っていたことでしょう。しかし彼らも、その後の教会の先達たちも皆、地上の生涯を終えてゆきました。そして、今日のわたしたちがいます。主イエスは、ひょっとすれば、明日来られるかもしれません。そのとき、先に召された人たちと同じように立たされ「あなたはわたしのように十字架を担いだか」と必ず問われます。そのことには誰一人言い訳は出来ません。謙虚に神の前に申し出るしかありません。神の前に出ることなく、ひたすらにあなたの後ろ姿を追って、十字架を担って来ました。そう答えられるように、今からでも歩み直してゆきたいと思います。

2025年08月31日(主日礼拝)マタイによる福音書 16章13節〜20節「教会の礎」 道家紀一牧師

主イエスが今日のような教会群を造ることを志されていたかは分かりません。主イエスがイスラエルにとわたしたちに伝えたかったことは「神の国の到来」です。ご自分が地上に遣わされたことによって、神の全き支配が始まったのだから、全ての人は、神の支配の下に戻らなければならない。そうすれば、神が望まれる平安なる世界(シャロームなる世界)が訪れるであろうということです。教会が、伝道し続けることの意味は、そこにあります。平和とか平安については、宗教以外にもいろいろな伝え方や造り方はありましょう。しかしわたしたち教会は、主イエスから託された「鍵の権能」(神の支配の下へ戻す権能)を行使することによって、それを達成するようにと召されているのです。

2025年08月24日(主日礼拝)マタイによる福音書 16章1節〜12節「主からいただくしるし」 道家紀一牧師

わたしたちは「救いのしるし」を求めます。「ああ、これが神の救いだ」と。しかし、ともすれば、それは、自分の思い込みや勘違い、あるいは、願望や希望に過ぎないかもしれないことに注意を払わなければなりません。わたしたちにとっての救いのしるしは、主イエスの十字架と復活=ヨナのしるし以外にはない。すべてのしるしは、それに基づいて判断していかなければならない、ということを、大切にして行きたいと思います。天からのしるし=神からのしるし、それは、十字架と復活!そこにいつも立ち帰りながら、信仰を整えてゆきましょう。

2025年08月17日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 15章29節〜39節「あふれ出る祝福」 道家紀一牧師

この奇跡は、さらに続いて行くことが、7つの籠に残ったパンくずが表わしています。神の祝福は、たった(男子)4000人で終わることはないのです。7つとは初代教会の7つの役職(聖なる職務)という説もあります。(真意は分かりません)弟子たちは神の祝福がいっぱい詰まった籠を携えて、主イエスの死後、異邦人伝道へと向かってゆくことになります。神はユダヤ人(イスラエル)の回復から、世と人をご自分のもとへ取り戻す救いの御業を始められます。しかし、その御業は、ユダヤ人(イスラエル)を越えて、さらに拡がっていったのです。わたしたちの日本にも、パンくずの籠を携えた宣教師たちが来て、神の救いの祝福が、日本各地に拡がっていったのです。

2025年08月10日(主日礼拝)マタイによる福音書 15章21節〜28節「救いはイスラエルから」 道家紀一牧師

主イエスは、彼女を顧みられます。「婦人よ、あなたの信仰は立派」だと。元の言葉では「大きい」という意味です。今でいう「メガ」です。湖で沈みそうになって騒いだ弟子の小さな信仰と比べ何と大きな信仰でしょう。この話しを通して示されていることは、神には神の秩序があることをきちんと認めつつ、不平を述べずに神へ信頼を寄せて行く。そのとき、想像を超える奇跡が起こるのだ、ということです。教会はある種の危機にあります。社会も世界も、混迷の中にあります。神に不満を述べたい思いが募ります。しかし、それでも、神の救いの秩序を信じ、神に委ねて、そのときを縋るほどに待ち続ける、そういう信仰が今の時代は、求められているのではないでしょうか。

2025年08月03日(平和聖日礼拝)ローマの信徒への手紙 9章19節〜29節「残りの者が救われる」 道家紀一牧師

今、わたしたちの世界は、神の怒りの器になる寸前のところまで来ています。いつ神が忍耐を止めて、打ち壊されても仕方がないところまで来ています。しかし、神は、御子キリストの贖いの業(十字架と復活の出来事)によって、今に至ってもなお耐え忍んでくださっていると信じます。世界と人々が、憐みの器として取り戻される(造り直されるよう)篤き平和への祈りを携えて、御言葉の宣教(伝道)に仕え続けましょう。