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立川の小さな教会(日本基督教団 西東京教区)
2025年12月14日(待降節第Ⅲ礼拝)ルカによる福音書 1章39節〜56節「受胎告知」 道家紀一牧師

三か月エリサベトのもとに滞在したマリアは自分の家=生活の場へ帰ります。エリサベトと共に神の選びを確信したマリアは、主イエスの母としての生涯を始めるのです。しかしその生涯は、主イエスを神殿に連れて行ったときにシメオンから受けた言葉に預言されるような生涯となります。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 35――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」と。我が子が十字架に架かって死ぬことを目撃する人生が待っているのです。しかしそれが、神の子を宿したという何ものにも代え難い幸いなのかもしれません。

2025年12月07日(待降節第Ⅱ礼拝)マタイによる福音書 1章18節〜25節「ヨセフへのお告げ」 道家紀一牧師

夢のお告げから目覚めたヨセフは、主の天使=神に命じられた通りに、妻となるマリアを迎え入れます。そして、生まれ出た子どもの名前も、神に言われた通り、イエス=主は救いとします。ヨセフは、主イエスが生まれるまで、マリアと関係をもつことはしませんでした。それは、ヨセフが、二人の間に起こった全てのことを、神が主体となり起こしたこと(神の主導による出来事)として(人が介入してはならない:触れてはならない事)として、受け入れたことの証しでありました。アドベント二週目に入ります。受け入れ難い突然の出来事に動じながらも、神と神の言葉に聞き続け、救い主なるキリストの誕生=救いそのものを来たらせるに至った若い二人の信仰に思いを馳せつつ過ごしましょう。 

2025年11月30日(待降節第Ⅰ礼拝)イザヤ書 51章4節〜8節「救いは近い」 道家紀一牧師

イザヤ書51章は、第二イザヤ書と呼ばれる時代に書かれた預言です。ユダヤ人(歴史のヘブライ人)がバビロニアに強制連行された最も苦しい、そして「希望のない」時に書かれた預言書です。人は、希望を失う前を向かなくなり、やがて、四面楚歌に陥ります。しかし、たとえそうであっても、一つだけ開けている場所があります。天の高き空です。そこには、救い主なる希望の神がおられます。イザヤは語ります。「目を上げて、天に眼差しを向けよ」と。捕囚のユダヤ人はこの預言から慰めと力を得て、解放(救い)に至ります。わたしたちもまた今の暗き時代、天に眼差しを向けて歩み続けましょう。
 

2025年11月23日(収穫感謝日礼拝)マタイによる福音書 19章16節〜30節「永遠の命を得るには」 道家紀一牧師

ここで主イエスがいわんとされていることは、家族よりも神とか財産よりも神という単純なことではありません。与えられている家族や財産は、どこから来てるかという問いです。自分の力で得たかもしれないが、神なのです!という問いです。わたしたちは、何もかも手に入れたいと思っています。ともすれば、信仰さえも、手に入れたいと思っています。しかしそれを決めるのは、神なのです。最後の言葉は、そのことを語って余りがあります。「 しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる」と。神のみが、お決めになる「聖なる選び」があるのです。

2025年11月16日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 19章13節〜15節「天の国はこのような者たちのもの」 道家紀一牧師

子どもにしろ、大人にしろ、真に、心を入れ替えるには、主イエスの力をお借りするしかないのです。わたしたち、神から引き離されている罪人たちを、神の前に出られるようにするために、自ら神の命を投げだしてくださり、復活なさった主イエス・キリスト、この方に”手を置いて祈っていただく”しかありません。それが、洗礼という聖なる出来事=サクラメントです。洗礼を受けるとき、罪人であるわたしたちは一度、水の中で死にます。そして、神の復活の命にあやかって、罪赦された者として、神の前に立つことが可能となるのです。そのとき、わたしの心は、前の心とは全く入れ替わって、新しくされているのです。

2025年11月09日(主日礼拝)マタイによる福音書 19章1節〜12節「受け入れることができるなら」 道家紀一牧師

誰にでも不条理な人生があります。しかし主イエスはいわれます。「それがあなたの人生です」と。課題は、それを「受け入れられるか、受け入れられないか」でしょう。生きていれば良いことばかりではありません。神を信じている者であろうと、信じていない者であろうと、降りかかる災難は同じです。信仰者の信仰者たる戦いは、そこから始まります。「受け入れることができるなら」という聖なる戦いです。そのために、わたしたちは、聖書の言葉=神のご意思に聞き続けてゆきます。間違っても、ファリサイ派のように、自分勝手に捻じ曲げて解釈することがあってはなりません。真摯に、主イエスの御声と聖霊に導かれながら、神の御心である聖書の言葉に、聞き続けてゆきたいと思います。

2025年11月02日(聖徒の日礼拝)詩編 51章1節〜11節「神の御顔を見る日」 道家紀一牧師

罪が洗い清められるということは、神の御顔を仰ぐことが出来るということです。詩人(ダビデ)は、そのことを知った上で、あえて、こううたいます。「わたしの罪に御顔を向けず咎をことごとくぬぐってください」と。罪の汚れにあるままで、神の御顔を向けられたら、詩人(ダビデ)もわたしたちもひとたまりもありません。ならば、神よ、その御顔を、わたしの罪にはお向けにならないで、罪(咎)をことごとく拭ってくださいと願います。罪の汚れを洗い清められたとき、何の恐れもなく神の御顔を仰ぎ見ることが出来ます。先に召されていった一人ひとりは、今、神の御顔を仰ぎ見る希望の下眠っておられます。それと同じ希望をもって、私たちもまた、その日そのときまで歩んでゆきたいと願います。

2025年10月26日(宗教改革記念礼拝)マタイによる福音書 18章21節〜35節「こころから赦す」 道家紀一牧師

神による罪の負い目の帳消し=罪の赦しは、免罪符など買うことなく、わたしたちに与えられることを再発見したのがルターです。「 22すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。 23人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、 24ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(ローマ3:22、23) ただ、イエス・キリストを、その十字架の贖いの死による恵みを信じることによってのみ、わたしたちの罪は赦され、天の国への扉は開かれるのです。

2025年10月19日(日本伝道の推進を祈る日礼拝)マタイによる福音書 18章15節〜20節「あなたがたの中におられる」 道家紀一牧師

教会の信仰に生きるとは、教会の働きに生きるということす。教会の働きとは「赦しの業」です。罪の赦しの権能を託されているものとして、赦しの業を祈ってゆくのです。これは、優しい道ではありません。「神の愛」に努めるということだからです。日本に愛という言がなかったとき、神の愛という言は「神のお大切」と訳されたそうです。神は、ご自身がお造りになられた世界と人々を、御子キリストをささげるほどに、大切になさってくださる、というのが神の愛ではないでしょうか。その神の愛に生きるとき、わたしたちもまた、主の後ろ姿に倣って生きて行くのです。それが「赦しの業」に生きて行く、祈って行く、ということになるのだ、といえましょう。

2025年10月12日(神学校日礼)マタイによる福音書 18章1節〜14節「迷い出た一匹のために」 道家紀一牧師

100匹の中からいなくなった1匹に思いをかける羊飼いのたとえは、今日、リスクという言葉で表されることかもしれません。そのぐらいはしょうがない。計算済みの損失であると。そのことが如実に出ているのが戦争です。戦う前から、何人死ぬか計算され、命がいとも簡単に軽んじられている世界です。1匹や2匹を気に掛けるな、それよりも、残っている99匹(98匹)のことを気にかけていこうではないかという生き方です。考え方です。落ちこぼれはおいて行こう。という方針です。最近の言葉に「持続可能」とか「一人も取り残さない」というのがありますが、それは、今の世界の在り方に対する一つのアンチテーゼであるといえましょう。「たかが1匹ではなく、されど1匹」という生き方です。